阿武隈川上流地区とは

   

阿武隈川上流地区について

本地区は福島県中南部に位置し、阿武隈川沿岸の西郷村、白河市、泉崎村、中島村、石川町の1市1町3村に跨る水田2,410haを有する穀倉地帯です。

古くから良質米の産地とされておりますが、漏水田が多く、多量のかんがい用水を必要とする地域のため、昔は10年に3・4回訪れる渇水の年には、それぞれの地区で水の確保に大変苦労していました。

そこで昭和12年に福島県知事や地元有力者の仲裁により貯水池の構想が生まれ、昭和17年に県営事業で西郷ダムの建設が着工しましたが、昭和18年に太平洋戦争が熾烈となる中で事業も中止となり、紆余曲折を経ますが、終戦後 地元関係者の熱意により昭和22年に国営事業として再開され、昭和30年に完成しました。

西郷ダムからの水は阿武隈川本流に合流し、下流26ヶ所の堰から取水されます。堰と水路は地元の水利組合や土地改良区により管理され、かんがい時は連携して用水の安定供給を図っています。

 本地区は白河市を中心とした、上流は西郷村より下流の石川町の鳥内地区まで耕地2,410haを有し阿武隈川の水源地は那須甲子高原に端を発し流域の上流部は大部分広葉樹林で急傾斜であって、中下方部は緩勾配になっています。また、本地帯は東は太平洋より阿武隈山系にさえぎられ、西は日本海より那須山脈に横断されて温度は割合に低く季節風が強く吹きます。

 地質は概ね第四紀沖積層で一部は沖積層が現れて母岩は全地区にわたり石英安山岩類です。土壌の表土は砂質壌土が大部分を占め一部砂土のところもあります。

 季節的には4~12月は変化は無いのですが、1~3月には甚だしく水位が低下します。このような状態に於いて当地域はかんがい期間中のかんがい水に不足し、代掻き及び押秋期の用水不足に伴い水争いが起こったり、川下の村から雨乞いと称し旱天に蓑笠をつけた人々が甲子山(1,835m)に向かう姿が度々見受けられたと言います。

 そして、このようなことで計画的植付の不能等により経済的また収穫減等、常に沿岸農民は苦労を重ねてきました。

西郷ダム建設の歴史

 阿武隈川上流地区は大正3年の水不足から問題として取り上げられ、さらに同10年から群農会が加担されるようになり、昭和8年には農林省の調査が始められました。

 その後、昭和12年に沿岸有志が相謀り当時の西白河郡農会の人々と共に研究し阿武隈川上流の西郷村地内に有望地点を探し貯水池を設置し適期用水の緩和を図る企画を練り、各受益者の調印及び一筆調査を行い昭和17年2月工事認可の申請を行い昭和17年2月工事認可の申請を成し、同年6月に白河町外八ヶ村耕地整理組合を設立し、白河第三小学校講堂に於いて第1回総会を開催し同年10月総工費170万円の予算をもって起工式をあげ県営事業として西郷貯水池構築に着工しました。

 昭和18年第二次世界大戦が熾烈となるに伴い資材の不足や労働力の不足等々の状況により事業中止のやむなきに至りました。同19年3月に折よく保土ヶ谷化学工業白河工場の工業用水としての道が開かれ共同事業の名目で工事が再開されましたが、昭和20年終戦となり、軍需工業の全廃に伴って単独事業に切り替えられました。

 その後、国土開発営団の創設により営団事業として再継続となったものの幾何もなく同営団の廃止により、事業はしばらく中止となりました。

 事業はこの後2年間放置されて余命まさに尽きようかと思われましたが、理事長や受益農民の努力により昭和22年10月農林省国営事業に移管されて事業は続行されました。この工事は間組が請負うところとなり、米国式機械土工による再発足となるに至りました。

 昭和24年農地法の改正に伴い組合員数は計画当初の3倍となり約2,400名に増加していました。更に一筆調査並びに同意書の再確認を行い、昭和27年5月、白河市外七ヶ村土地改良区と組織替名義を変更しました。

 昭和30年5月30日に待望の西郷貯水池(西郷ダム)は周囲の状況の変化、物価の上昇等のため総工費は県営時代以後の国営事業費を併せて4億6千余万円と十数年の年月を要して、ようやく竣工の運びとなり同年7月9日には盛大に竣工式を行いました。

 なお、工事の人夫の中には囚人も使役されていましたが、堰堤用土の掘削作業中に痛ましい崩落事故が発生し犠牲者が出ています。

 竣工式に当たって作成された「西郷ダムのしをり」には次のように記されています。

1.竣工のよろこび

 昭和30年みどりいやます7月9日、ついに地方民の熱意は報いられて待望の西郷ダムは竣工したのである。思えば二昔以前有志相謀り、郡農会の人々と共に事を企つのに始まり、今日に至る長い間のこの地方、この流域の希望であり、これが達成の為にたゆまざる吾等の悪戦苦闘が漸く実を結んだとも言いるのであろう。今に至っては亡き同志もあり、是に感慨無量に堪えない。かくて阿武隈水系の県南地方、白河市外七ヶ村土地改良区域の二千四百余町歩の灌漑は、夏のどんな旱魃からも完全に開放されたのである。このよろこび、この感激、げに旱天に慈雨を得たとはこの事であろう。

 かつて名君松平楽翁公の『苗代やまゝになるまで水加減』と、味うべき句ではなかろうか。八十八夜を前にして種をひたし、苗代から青田のそよぎ、そして結実のその日まで、水ならざるはなく水の大切なることを諷示したものであろう。新湖『西郷ダム』にたゝえる深潭は、しかも水面の温水を灌漑するので、やがてよせくる瑞穂の波と共に感謝をのせて、長くこの地をうるほすことであろう。

2.構想のあらまし

 西郷ダムの構築は、阿武隈川にそそぐ鳥首川と油井ヶ原川(現在の黒土川)の両清流を、西郷村追原字萱場(現在は鶴生字黒土)の地点において堰き止めたものであって、その堰堤は長さ220m、高さ32m、下底200m、上底8mの梯子型に築き上げられたもので、この築堤には近代科学の粋を結集、米国式機械化土工による基礎の強靭と設計の斬新なる、すべて内外の全知能をあげたものといって差し支えない。かくて築堤は万全そのものというべきである。

 総工費4億7千万円、1日能力数百人に相当するブルトザー、トラクターシャベル、ケーブル、クレーン、電気機関車による連鎖運搬車等、所謂アメリカ式土工機械を使用して、なお外に無慮80万人の延人員を要したのである。

 これが満水時には300万立方米の水量となり、なおこれ以上も貯めることも不可能ではない。また一度これを放水するときは、面積二千四百余町歩の全流域に対して、平常の水を14日半分補給することが可能である。今後この流域に昔日の如き旱ばつは絶対にあり得ない。

 また満水時の水面積は実に三十二町歩、水尋の最も深いところは三十米余に及ぶ。実に偉観である。

3.環境の道しるべ

 この地幽すいにして那須山系中の名山甲子、鎌房、白河布引の諸山に包まれ風光絶佳、春の若芽は花よりも美しく湖畔に映じ、夏はとけんの声と共に青葉の色照り映え、秋は紅葉色とりどりに影を水に写す。冬の雪景色も亦捨て難い。湖畔に立てば眺望は更に雄大にして、しかも巧緻一大観光パノラマをみるの感がある。

 この地、白河市を距ること西に18キロ、道は白河市より甲子温泉に沿うて進み、折口部落にて右に折れ、阿武隈の清流を渡って追原に至る。これより更に羽鳥道を北に進み、南辻よりこれと別れて左に折れ行くこと2キロ弱にしてこの地に達する。変化に富む道路である。

 この地また西北甲子のふもと名湯甲子温泉までは8キロ、北は湯本の一大造湖羽鳥ダムまで6キロ、自衛隊のキャンプ所は指呼の近きにあって、やがて完成さるべき大観光路によってこれらを結ぶときは、特色ある観光地として世人を楽しましむる日も、そう遠くはないであろう。

特産品

豊富な農畜産物が育まれています。

 本地区は阿武隈川が中央に流れ、その支流に沿うように田園が広がる緑と水の豊かなお米の産地となっているほか、きゅうり、トマト、なしは共同選果施設が稼働し、栽培農家の負担軽減と品質の統一がなされています。

  • 水稲     寒暖差が激しいことから、おいしいお米が育つ産地となっています。 
  • きゅうり   夏秋きゅうりの出荷量は全国でもトップクラスの一大産地です。
  • トマト    県内でも有数の出荷量のトマトは、引締まっておりコクがあります。
  • ブロッコリー 春・秋と2回作付けが行われ、県内一の出荷量を誇ります。
  • なし     秋を代表する果物です。糖度のあるコクのある梨です。 
  • はとむぎ   遊休農地の活用や水田の転作作物として産地化されました。